Astrantia

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【雑感】幼年期と生死の境域、あるいは『君たちはどう生きるか』(宮崎駿)について

 ネタバレを避けるために初日に観てきた。しかし、これほど感想に困ることになるとは思わなかった。

 駄作ではない、と思う。引退作としても申し分ないだろう。賛否両論、と言うなら、僕は間違いなく「賛」の方に立つことになる。周囲に「否」側の人間が多かった(実体験)としても、そのスタンスは変わらない。

 とはいえ、この映画が一筋縄でいかないものであることは確実だ。実のところ、この映画は、多くの宮崎アニメがそうであるように、批評性とは無縁であるように思う。宮崎駿についての批評は常にある種のこじつけとして演じられる。なにせ、本人が明確にそうした態度を拒んでいるからだ。そして今作は、特にその向きが強い。なぜか。

 それは多分、この映画が純粋に、どこまでも「子ども向け」の映画だったからだと思う。僕らは、その重力圏には含まれていなかった。宮崎駿は最後に(本当に最後になるかはわからないけれど)、子どものための映画を撮ることを選んだ。それも、生と死についての映画を。テーマの普遍性と、目線の限定性は相克を生む。そうして、僕たちは置き去られたのだ。

 そういうわけで、この映画についてなにごとかを書くのは非常に難しい、と言わざるをえないだろう。いつものように時評を書こうとしたが、決定的な表現を掴めないまま、気づけばすでに公開から二日が過ぎてしまった。そろそろ何かを書かなければまずい。そう考えた僕は、とりあえず備忘録から文章を引っ張ってくることにした。

 以下の文章はそれである。時評にかえて、この文章によって、僕はこの映画に対するスタンスを表明したいと思う。


 至純にしてどこか寂しい「夏映画」。これは子どものための映画であり、つまるところ、タイトルの「君たち」とは、いまここにある、そしてこれから先あり続ける子どもたちのことである。僕らのことではない。僕らは置き去られてしまった。おそらくは、永遠に。

 生と死が分かたれていなかったあの頃。死を死として認識することのかなわなかったあの頃。その情景を、原風景を、宮崎駿は自らの確信できる、幻想的なモチーフによって活写しようとした。死者の世界に充溢する「生」の表象たち。死のなかの生、生のなかの死。そうしてその世界は、あいまいなものとして、死を死として表現しえない、微睡みのような境域として実現された。だからこの映画に、およそ論理的整合性なるものは存在しない。それはどこまでも、「あの頃」の論理からは隔たっている。生と死を切り分けること。それによってこぼれ落ちていくもの。それを、この映画はすくい上げる。

 冒頭で死んだ母は、若い頃の姿で平然と登場する。そして生者であるはずの使用人の老婆も、遠い昔の、顔も存在も知らないはずの先祖もまた、そこには現実の臭みが脱臭された、ある種理想の形として現れる。現実の存在として、分かちがたい実在として。その当然顔の振る舞いは、もはや我々に虚構と現実の対立をさえ論じさせない。この映画にそうした葛藤はない。あるのは、ささやかな決別だけだ。

 だからこの映画は、当初予期されていたような説教をはらむものではない。そこに表れているテーゼはごく自然で、さりげない。死との決別。デザインされた死の世界、生と不可分のものとしての死を抱え込む世界との決別。それがこの映画が最後に見せたものであった。そこには主体的な決定というものが持つ、避けようのないラディカルさはない。それはどこまでも自然な行為として、自然な成り行きとして表現される。

 僕らはこの映画のことを忘れないだろう。けれど、子どもは忘れる。他の多くのことと同じように。お気に入りの玩具が、常にそうであったように。だがこの映画になにがしかの価値があるとするならば、それはたぶん、そこにしかないのだろう、と僕はあえて断言したい。忘れられるところにこそ価値がある。そういう映画があってもいい。たとえそれが、巨匠の引退作であったとしても。